M&Aの現場では、譲渡価格の算定にあたって年買法(時価純資産に、数年分の営業利益を上乗せする方法)がよく使われます。しかしこの数字は、あくまで売り手が自らの取引の「出発点」として提示するものだという点に、まず注意が必要です。最近は人材不足を背景に、従業員数を基準に価格の目安を設定するケースも見られるようになりました。優秀な人材を抱えていること自体が会社の価値であるという発想は理解できますが、いずれにしても、こうした指標は売り手側の論理でつくられたものであり、買い手がそのまま鵜呑みにしてよいものではありません。
買い手は、提示された価格を交渉の出発点としながらも、自社にとってその会社にどれだけの価値があるのかを、独自の視点で改めて検証する必要があります。ここを省略してしまうと、契約後になって「想定していた収益が上がらない」「思わぬコストがかかった」といった事態を招きかねません。M&Aは契約してしまえばやり直しがきかない取引です。相手に対する信頼感や、成長性への期待といった感覚だけで進めてしまうと、後になって根拠を説明できず、社内やステークホルダーへの説明にも窮することになります。だからこそ、買収前の仮説立案という一手間を惜しまないことが、買い手にとって何より重要になります。
まず損益計算書(PL)では、経営者が交代した後も現在の売上を維持できるかどうかがポイントになります。現経営者個人の営業力や人脈、あるいは長年の信頼関係によって成り立っている売上であれば、承継後に取引が細り、業績が大きく落ち込むリスクがあります。逆に、組織として仕組み化された営業体制であれば、経営者交代の影響は限定的でしょう。また、自社が買収した場合に、管理部門の統合、仕入れの一本化、物流や拠点の集約などによって、どの程度コストを圧縮できるかというシナジーの視点も欠かせません。この二つを合わせて見ることで、買収後のPLがどう変化するかの見通しが立ちます。
貸借対照表(BS)では、計上されている資産が実際に収益を生み出しているかどうかを見極める必要があります。稼働していない設備、含み損を抱えた不動産、回収の見込みが薄い売掛金、動きの止まった在庫などが含まれていれば、それらは将来的に処分すべき資産として切り分けて考えるべきです。帳簿上の資産価値と、実際に事業に貢献している資産価値は必ずしも一致しません。買収対象の資産を「稼ぐ資産」と「そうでない資産」に分けて評価する視点を持つことが求められます。
あわせて、キャッシュフローの確認も欠かせません。特に季節要因による資金の波、大型の設備更新、在庫の積み増しなどによって、買収後一時的に資金が減少する局面が生じる可能性があります。こうしたリスクをあらかじめ想定し、必要な運転資金をどの程度手当てしておくべきかを検討しておくことが望まれます。想定より資金繰りが厳しくなった場合の備えを事前に持っているかどうかで、買収後の経営の安定度は大きく変わってきます。
これらの検討は、精緻な財務モデルを組む必要はなく、エクセルの表を使った簡易なシミュレーションでも十分に可能です。売上の維持率を複数パターンで置き、コスト削減効果を保守的に見積もり、資金繰りの山谷を月次で並べてみるだけでも、その会社の実像はかなり見えてきます。大切なのは、モデルの精度の高さではなく、こうした仮説立案という作業そのものを省略しないことです。
こうして買い手自身の視点で価値を検証しておくことで、「この価格なら買収する」「この条件では見送る」という判断を、自信を持って下すことができるようになります。仮説と実際の結果がずれた場合にも、どこにギャップがあったのかを振り返ることができ、次の案件への学びにもつながります。年買法など売り手側の指標を出発点としながらも、最終的な意思決定は、買い手自身が組み立てた仮説に基づいて行う――これが、M&Aで後悔しないための重要な備えとなります。